甘粛省酒泉市 
Gansu sheng Jiuquan shi 
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都市名
  酒泉市。嘉峪関から近いので、嘉峪関から日帰りで訪れた。丁家閘古墓を見たあと、まだまだ時間があったので粛南縣の方へも行くことにした。このあたりはバスで見所へ行くのはなかなか難しいので、タクシーに乗ることが多い。でも甘粛省はタクシーも安い。1kmで1元なので計算もしやすかった。(2003年8月)
鼓楼 Aug. 2003
Gulou
thumbnail 西漢代、酒泉郡に福禄城を建設、その後城は地震で倒壊した。東晋代に太守謝艾が福禄城を再建、東城門楼が現存する。明代に拡張した際、城門の一つを鼓楼に改築し現在に至る。
丁家閘古墓 Aug. 2003
Dingjiazha Gumu
thumbnail 1977年に発掘された東晋代の墓。レンガで構築された墓室が2つ。壁には黄色の泥が塗られ、その面に壁画が色鮮やかに描かれている。東王公、西王母、飛馬、白鹿などその種はさまざま。
酒泉 Aug. 2003
Jiuquan
thumbnail 言い伝えでは漢驃騎将軍霍去病が匈奴征伐に勝利したおり、漢武帝から御酒を賜った。霍去病はその酒を泉に注ぎ入れ、兵士たちとともに飲んだ。そのため酒泉と呼ばれるようになった。
酒泉公園 Aug. 2003
Jiuquan Gongyuan
thumbnail 酒泉の周辺に整備された公園。古典園林や湖などが設けられ、市民の憩いの場となっている。酒泉のもとの名は「金泉」で、泉の中に金があったことから名付けられた。

都市名
  敦煌市。中心地は沙州鎮。甘肅省西北部に位置する。蘭州から約1140km。1987年に敦煌市として設立。莫高窟が最も有名である。ここまで内陸に来ると内陸性気候の為、寒暖の差が激しく乾燥が酷い。鳴沙山を観光中にいきなり砂嵐に巻き込まれた。耳の穴にまで砂が入り、カメラも砂だらけになってしまった。(1996年8月)
  7年ぶりに訪れた、敦煌。前回来たときに見られなかった場所を見るだけのつもりだったが、なかなか居心地のいい街で2週間ほど滞在してしまった。街を歩いていたら、とある店の前で声をかけられ、以後その店で食事をし、暇なときは過ごすこととなる。その店の主は気さくなおっさん。冗談が大好きなので、馬鹿な話ばかりしていたが、楽しかった。日本人もけっこう多くて、たくさんの人たちと知り合うことができ、それも楽しかった。長く滞在したのはこういった理由からかもしれない。敦煌から離れようとすると、店のおっさんが「今日は日が良くない」とか、なんだかんだ理由をつけられて引き留められた。いや、でも本当に楽しかったからまた行きたいなぁ。ちなみにお店の名前は「敦煌料理店」、店主は隋さん。(2003年8月)

街の入り口 Aug. 1996
Qu chengqu de lu
thumbnail 飛行場から街へ向かう道、荒涼とした風景が続ているが、この門を越えていくともうすぐ敦煌の街である。
莫高窟 Aug. 1996
Mogaoku
thumbnail 千佛洞とも呼ばれる。鳴沙山東麓の断崖い上下5層、南北1600mにわたって彫られた石窟。現存するのは北魏代から元代にかけての492窟、壁画45000平方メートル、塑像2415体。内部は写真が撮れないので見たい人は行くしかない。
鳴沙山 Aug. 1996
Mingshashan
thumbnail 東西40km、南北20kmにわたり広がる。古代ここで宿営した兵馬が、暴風で一夜のうちに埋没し、後に鼓角の音が聞こえることから鳴沙と呼ばれるようになったとされる。
鳴沙山 Aug. 2003
Mingshashan
thumbnail 夕暮れの鳴沙山。満月の日にはとても明るい月が砂山の向こうから昇ってくる。砂山の上まで登るのはかなり大変だ。ラクダに乗ったりして見て回ることもできる。風が強い日にはカメラに注意が必要。細かい砂が中に入り込み、動かなくなってしまうことが多い。
玉門関 Aug. 1996
Yumenguan
thumbnail ここから和闐玉(和田玉)を中原へ運んだことから、玉門関と呼ばれるようになった。古代シルクロード北道の重要な中継点。高さ9.7mの関が古代の姿をそのまま残している。
西晋墓 Aug. 2003
Xijinmu
thumbnail 佛爺廟湾の古代墓。1993年から敦煌飛行場を建設時に発掘された。墓内の壁画やレンガには、神禽霊獣に代表される神話伝説類、歴史人物類、動植物類など、当時の世俗や生活などが描かれている。酒泉や嘉峪関でも発掘された、魏晋十六国時代の壁画墓の同列のものと思われる。
月牙泉 Aug. 1996
Yueyaquan
thumbnail 鳴沙山の北麓にある泉。三日月形の泉は水草が茂り、底が見るほど澄んでいる。また鉄背魚という魚が生息している。近年だんだんと水量が減少してきているという。
沙州故城 Aug. 1996
Shazhou Gucheng
thumbnail 古くからシルクロードの重要な街として栄える。ここから西へ向かう道が南北に分かれ、南は陽関、北は玉門関へでる。沙州の由来は鳴沙山の名から。
西千佛洞 Aug. 2003
Xiqianfodong
thumbnail 莫高窟を組成する一部分とされる。現存する窟は22窟、党河畔に北朝晩期から隋、唐、五代、宋代初期、西夏にわたって開鑿された。塑像53尊と色鮮やかな壁画が残る。洪水の影響でほとんどの洞窟は半分ほどしか残っていない。第9窟、西魏代の中心柱など、修復されていない原作が残っている部分も少なくない。
墩墩山烽燧 Aug. 2003
Dundunshan Fengsui
thumbnail 陽関は銅矢尻、五銖銭、陶器片など漢代の文物が大量に出土した古董灘にあり、玉門関の南にあることから、その名がつく。古代シルクロード南道の重要な中継点だった。陽関はすでに現存していない。北側の墩墩山上に烽台が残っているだけである。
河倉城 Aug. 2003
Hecangcheng
thumbnail 大方盤城とも呼ばれる。漢代に建設され、魏晋代まで西部防衛のために軍の兵糧を蓄えた場所。幅40mほどの倉庫が3つ連なり、壁には通風のために三角形の小窓が設けられていた。
漢代長城 Aug. 2003
Handai Changcheng
thumbnail 玉門関の西から疏勒河の南岸に沿い、安西縣北湖、金塔縣まで延びる漢代長城。玉門関付近が最も保存状態がよい。植物に砂を挟んで積み上げたもので、最も高いところで4mほど。

都市名
  瓜州縣。旧名は安西縣。中心地は渊泉鎮。さてさて、以前来たときに行けなかった楡林窟に行こうと思い、どう行こうかと考える。楡林窟の他にも東千佛洞とかがあり、効率よく行くにはやはりタクシーに乗っていくことにした。敦煌料理店の前でたむろしていたタクシーのおっちゃんと交渉する。楡林窟と東千佛洞、鎖陽城の3つを回ることにし、交渉成立。次の日の朝早く出発する。朝早く出発するのは、涼しいうちに距離を稼ぎたいからだ。
  楡林窟では参観者が私一人だったため、解説してくれる人が一人ついて、回ったくれた。彼は日本語を勉強しているらしく、少し話すことができる。中国語で解説しながら、時折日本語でどういうか聞いてきた。なかなか親切で解説もよかった。楡林窟もすばらしい。ぜひ一度行くべきだ。さて、お次は鎖陽城。ここも私一人。案内のおねえさんがついて、回ってくれた。このおねえさんも写真を撮ってくれたり、いろいろ親切だった。さて、お次は東千佛洞へ。ここを訪れる人はかなり少ないようだ。東千佛洞は特別窟を見ないと意味がないので、360元払う。チケットは鎖陽城の管理室で購入し、案内してくれたおねえさんが鍵を持って、一緒に東千佛洞へ向かった。タクシーの運ちゃんも初めて行くらしく、東千佛洞へ到着後、ちゃっかり一緒に窟を見て回った。東千佛洞もなかなかいい。
  さて、見る物は見たので、敦煌へ戻る。途中、道路脇に破城子遺址があったので、そこもついでに。さらに戻る途中でタクシーの運ちゃんが安西瓜をご馳走してくれた。これがめちゃめちゃ甘くてうまい! 敦煌でも売っているが、まずいのが多い。買うなら安西で。(2003年8月)

楡林窟 Aug. 2003
Yulinku
thumbnail またの名を万佛峡。開鑿時期を特定できるものがないが、第25窟に光化三年とあるので、隋代以前とされる。現存する窟は41窟、東側崖に30窟、西側崖に11窟。特に壁画がすばらしい。
東千佛洞 Aug. 2003
Dongqianfodong
thumbnail 23窟が現存、壁画と塑像が残るのは9窟。「浄土変」「涅槃変」「薬師変」「文殊普賢変」「水月観音変」など西夏代に流行したものが題材となっている。西夏代の石窟として独特な風格を持つ。
鎖陽城 Aug. 2003
Suoyangcheng
thumbnail 元の名は苦峪城。古代、籠城した兵士が鎖陽という植物を食べ飢えをしのいだことから、鎖陽城となる。南北470m、東西430mの砦あとには高さ約10mの城壁も残っている。
破城子遺址 Aug. 2003
Pochengzi Yizhi
thumbnail 漢代廣至縣、唐代常楽縣の治所があった場所。南北250m、東西148mの城塞跡には陶器の破片や建物跡が残っている。また城外北側には小さな廟の基礎部分が残り「望郷台」と呼ばれる。

都市名
  粛北蒙古族自治縣。中心地は党城湾鎮。敦煌料理店で置いてあった本などを読んでいると、五個廟石窟があると書いてある。なら見に行こうと、店主の隋さんに聞く。彼も行ったことがないという。道路沿いにあるのでバスでも行けそうだが、本数が少なく、帰りが心配だったので、タクシーで行くことにした。そのとき、ちょうど敦煌料理店でKくんと知り合って、話をしていると、彼も石窟が好きらしく、一緒に行くことになった。
  さて次の日、また朝早く出発して五個廟石窟へ。現在は何とかという渡暇村の敷地内にあり、渡暇村の管理下にあるらしい。そしてなんと以前、盗掘があったらしく開放を中止したと聞かされた。残念だ。仕方ないのでせめて外観だけでもと見に行くと、「そとから見るだけでも一人5元だ」と言ってくる。むぅ。窟には扉がつけられ、入られないように施錠されている。「一人60元払ったら、壁画がちょっと見られる場所へ連れて行ってやる」とか言ってきたが、ぼったくりだ。窟の中も見られないから、断った。ちなみに近くに一個廟石窟というのもあるらしいが、現在は地名だけで何も残ってないとのこと。(2003年8月)

党河 Aug. 2003
Danghe
thumbnail 祁連山脈を源流に持つ党河は、粛北や敦煌を流れる。雪解け水が流れ込み、乾いた大地を潤している。鳴沙山にある月牙泉も以前は党河の一部分で、流れが変わり泉として残った。
石包城城堡遺址 Aug. 2008
Shibaocheng Chengbao Yizhi
thumbnail 
五個廟石窟 Aug. 2003
Wugemiao Shiku
thumbnail 北魏代、党河畔に開鑿された。総19窟のうち5窟が現存するため、五個廟石窟と呼ばれる。壁画は2層、下は北魏、上は五代から北宋の曹氏政権時の作品。莫高窟などとは作風が違う。
石包城城堡遺址 Aug. 2008
Shibaocheng Chengbao Yizhi
thumbnail 

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